歴史モニュメント

偉人像の設置

平成元年、コミュニティ-・マート構想モデル事業でまちづくりが検討され、

その一環で「歴史と文化の香り高い、城下町通り」をコンセプトに、構想から

完成までおよそ10年の歳月を費やし、平成10年10月全国高虎サミットに

合わせて完成、平成元年完成のポケットパーク4か所に設置されました。

 

丸之内のポケットパークには縁起の良い石、歴史を物語る石が数多く設置

されています。

◎藤堂高虎ゆかりの愛媛県今治市より「商売繁盛」「家内安全」を願った石

◎日本三津(さんしん)の一つ博多より温故知新の石

(日本三津---筑前の博多津・薩摩の坊の津・伊勢の安濃津をいう)

◎高虎開運の地、和歌山県粉河町から開運蛇紋岩

◎愛媛県宇和島市から「水難よけ海運の石」を海の見える小高い山から移設

◎高虎と徳川家康の絆を伝える「日光東照宮」日光から移設

◎高虎生誕の地、滋賀県犬上郡甲良町の滋賀星雲の石

商店街をぐるーっと一周すれば、運気アップしますよ!

藤堂高虎公像

甲良(こうら・滋賀県)に生まれた高虎は、戦いのない時代を創るべく東奔西走し、

慶長13(1608)年に伊賀・伊勢安濃津32万3千石の大大名となりました。

高虎は、津に入ると荒廃した町の再興に努めました。城を改築し、政治の要としての

丸之内や武家屋敷・町屋・商屋・寺町等を配し、町の発展を図るなど津のまちづくりを

行い、現在の津の町の礎をつくりました。また全国各地のまちづくりにも手がけ、

まちづくりの名手として有名になりました。

商売繁盛・開運の祖として、今も市民に敬愛されています。

西嶋八兵衛像

高虎に重用された八兵衛は、干ばつに苦しむ地域に出向き、優れた土木技術と努力によって、

全国のまちづくりに多大の貢献をしました。

当地においては「雲出井(くもずゆ)の開削」があります。戸木の取水堰を作り分水して

干ばつに悩む雲出本郷町・長常町・伊倉津町などの田を美田に改良しました。

また讃岐高松などの灌漑用水事業にも貢献しました。日本三大公園の栗林公園の整備は

有名です。

水の守護として、土木事業者、農業関係者、水商売の市民に崇められています。

谷川士清像

宝永6年(1709)、津の八町に町医の長男として生まれた士清は、13歳で京都の松岡玄達

に入門し、「本草学(博物学)」「医道(古医学)」「儒学(漢学)」「神学(国学)」

などを学び、亨保20年(1735)、津へ帰ってきました。

町医の傍ら学問にも打ち込み、洞津谷川塾を開き、多くの門人を育てました。

号を「淡斎」といい、「古事記伝」の著者である松阪の本居宣長とも親交がありました。

有名な「日本書紀通証」は、20年をかけて「日本書紀」を分かりやすくしたもので、

士清の名を高めました。

さらに、わが国初の五十音訓に並べられた国語辞典として「和訓栞(わくんのしおり)」

もまとめ、日本の国語学に大きな業績を残しました。

藩主も度々士清宅を訪問するなど、学問・健康(環境)の神様として今も市民に

尊敬されています

松尾芭蕉像

松尾芭蕉は正保元年(1644)、伊賀上野の赤坂で松尾家の次男として生まれました。

子供のころから俳諧を志す彼は、35才の頃、江戸で俳諧の宗匠(そうしょう)となり、

門人たちから芭蕉庵(ばしょうあん)がおくられ、名を芭蕉と号しました。

彼は各地を旅し、元禄2年(1689)150日に及ぶ旅で全国に「奥の細道」を残したあと、

伊勢に向います。

大垣・桑名を経て津に立ち寄り、岩田川河畔から阿漕浦を望み

『月の夜の何を阿古木(あこぎ)になく千鳥』

と詠まれたといわれています。